浪費が好きだ。将来の夢はドバイにマンションを買うことだ。毎日、昼からシャンパンを飲んでカジノをやって、筋肉質で彫りの深いメンズを5人くらい周りにはべらせて、動物の毛皮を首に巻いて暮らしたい。ドバイがどこにあるかはよく分かってないし、シャンパンは美味いけど、カジノの楽しさは知らん。イケメンと喋るのは緊張するし、動物の毛皮とか悲しいからあんまりつけなくないけど、まあとにかく、絵に描いたようなゴージャスな暮らしを夢見て、というかインターネットドリームで1年後にはなんやかんやそのくらい金持ちになってるだろ、という甘い考えを持って生きている。
私はフリーランスという名のプー太郎、女の子だからプー子か。なので、あんまり稼ぎは安定していない。でもたまに、ドカっと大金が入ってくるときがあり、そんなときには毎晩飲み歩いたり、外食をしたり、タバコを吸ったり、コンビニでどかすか物を買ったりしている。
で、お金がなくなるわけだけれど、頭が悪いのでお金がなくなったことに気づかず、同じように浪費し、だんだんと口座の残高がゼロに近づいてきて、ときにはエポスATMというお金が無限に出てくる箱に入り、キャッシングローンというやつをやったりする。
その度に、後悔する。けれど、この派手さがかっこいいのだ。とか言い訳して、自分のダメさを肯定してきた。
最近、料理研究家の土井善晴先生にはまっている。土井先生が出演している「きょうの料理」に伝説の回があるのをご存知だろうか。「塩むすび」の回だ。私も内容をまとめているブログでしか情報を得ていないのだが、それでも料理の哲学みたいなものが分かる内容で、自分でご飯を作る喜びや楽しさ、日本の良き慎ましさを感じた。
私も慎ましく生きたい。
くるりを聴いてギターを始めたように、千鳥を見てお笑いを始めたように、私は土井先生の塩むすびを見て、慎ましく生きることに憧れた。
ギターはFが弾けなくて諦めたし、お笑いもセンスがなくてやめちゃったけど、私は慎ましく生きられるのか。
節約というのはダサさをともなう
慎ましく生きる、つまり、私は節約をしたい。身分に合わない浪費を続けるのはもうやめにして、叶いそうもない理想を夢見てはいたいけれど、私は節約してちゃんと貯金をしたいのだ。老後に2000万かかるとか、そんなことを言われたらそう考えるのが普通だとおもう。あと、ここ数ヶ月仕事をサボっていたり、スタジオを作ったりして支出も多かったので、あと1ヶ月生きられるかどうか、という切実な金のなさが訪れていることもある。
お金のことを理解して、ちゃんと貯金をして、堅実に生きていきたいのだ。
とりあえず、節約の基本である自炊に挑戦しようとしている。自炊しよう自炊しようと思っているのだが、私の家には炊飯器がない。なので、3玉99円のうどんとソーセージを醤油で炒めて焼うどんを作ってみた。
私は、料理に興味を持ってこなかった。「食べられる」というラインをギリギリ合格したくらいのレベルのものしか作れない。私はこの醤油うどんがけっこう好きなのだが、食べていると虚無。
醤油うどんを食べながら、節約をする自分を俯瞰で見てみた。こんな自分が好きかどうかで言われたら、あんまり好きじゃない。ほんとは昼からシャンパンを飲んでカジノでパーっと遊んでいたいのに、醤油うどんを食べている。わびしさ。
理想と現実のギャップが私を責める。
後から振り返ると、ここが、節約のキーポイントである。
つまり、浪費を夢見ている私のような者は、節約に対してダサい、つまらない。といった思いを抱いているのだ。
節約をしている自分はキャラに合っていないような気までしてくる。節約をすることで、なんだかアイデンティティが潰されてしまう気がするのだ。この妄想に襲われてしまうと、節約の道がだんだんと遠のいていく。
第一に、私は「ていねいな暮らし」というやつを見ると「うるせー」という気持ちになり、そういった投稿を見るたびに松屋で牛丼を食べたりプラスチック製品を大量に買ったりしていた。
また、私の母は登山が好きなのだが、それも、「なんでわざわざ山に登るのですか」と嫌味ったらしく聞いたりしていた。富士山までエレベーターがあったら、私はそれで登るなあ。とか、言っちゃう。文明の利器で楽しみをぶち壊してやるぜ。と、思ったりしちゃう。
しかし、このままだと財布にも地球にも悪い人になり、おちていく。どうすれば私が節約に一歩踏み出せるかを考えたところ、アイドルを見つけることが大切ではないかと思った。節約している自分ってかっこいいなあ。と、思えるようなアイドルを見つけるのだ。
やはりきっかけとなった土井先生はアイドルだ。そして、熱海に住んでいる友達のMもそうだ。高校のときからの友達なんだけど、彼女は高校の時から慎ましくて、すてきだった。フリマでおしゃれな服を見つけるのがうまかったり、水筒にお茶を淹れてもってきたりして、なんかライフスタイルがすげえすてきだったのだ。
Mに会う機会があったので、ふだん食べているご飯について聞いてみた。「朝は納豆ご飯で、昼はサラダで、夜はご飯と魚」だそうだ。私はその回答にしびれた。くるりのばらの花を聴いたときのように、千鳥の漫才を初めてみたときのように、しびれた。
私も慎ましく生きんのさ。
ごはんを慎ましくする
Mは、今は炊飯器で米を炊いているそうだが、前までは鍋で炊いていたそうだ。鍋! 鍋で米を炊く! その発想はなかった。家に帰って、買ってから放置していた土鍋をメドメした。
この土鍋は3年前に、今と同じように「慎ましく生きよう!」と奮い立ったときに買ったのだが、「メドメ」がめんどくさくてそのままずっと放置していたものだ。
メドメの説明をすると、土鍋はそのまま使うとひび割れてしまうそうなので、お米のとぎ汁(小麦粉などでも可)を入れて沸騰させ、でんぷん質をなんか土の穴的な部分に入れていい感じにしなければならないらしい。
鍋をさましている間に眠り、朝になって米を炊いた。
米と同じ体積の水を入れる。150グラムが一合分です。お米を洗ったらちょっとだけつけとく。
強火から中火で沸騰するまで(10分くらい)。
ぐつぐついったら弱火にして15分。蓋を開けてみて水気がなかったら、再び蓋を閉めて10秒だけ強火で加熱してから、火を止めて15分ほど蒸らす。
そしたらツヤツヤでシロシロでホカホカな米ができる。
小学校の家庭科の授業やった以来だ。あのときはすごく時間がかかったような気もしたが、メールを返したり漫画を読んだりしている間に、あっという間に米が炊けた。
ご飯を入れるお茶碗は、Mが私の猫のために作ったもの。Mは陶芸家です。だが、猫のご飯入れはすでに貰い物であったので、自分用のお茶碗にした。四角いのはチャオチュールらしい。
それにしてもほれぼれするほどの白さですな。
前の日に鮭を買ったので、その半分をご飯に乗せて食べる。
米がつやつやとしていて、鮭はきれいなオレンジだ。身をほぐして米と一緒に口へ運ぶ。鮭の塩気で米が延々に食える。うまい。うますぎる。
板東英二以上にゆで卵が好きな私である。朝ごはんにゆで卵は欠かせない。
醤油うどんなんて作っていた自分がばかのようだ。土鍋で米を炊いて、焼いた鮭を乗せるだけでこんなにも充実した気持ちになるなんて。テクニックもいらない。料理ってこんなに簡単なものだったのか。
このままいけば、私は慎ましく生きられるかもしれません。慎ましの王になるかもしれません。なんかツイッターで「食べ歩キング」という人を見かけたが、その敵キャラ「つつましキング」になる。消費社会に待ったをかけるぜ。ルンルン気分で近くのスーパーをめぐり、いちばん安い品を見極めて肉や野菜や魚を購入する。なんだこれ、すげえ楽しいじゃないか。節約ってエンタメかもしれないなあ。メンズをはべらすよりも土鍋で飯を炊いたほうが楽しいような気もする。いや、メンズのほうが楽しいか……。
とにかく、こうして私は慎ましい暮らしにするりと身を投じた。ドバイとかシャンパンとか、そういったことをまるで思わず、毎日の暮らしのことを大切にするようになってきた。
ただ、心配なのは、私が急に「なぜ私は土鍋で飯を炊いてるんじゃ。サトウのごはんのほうが便利なのに……」と、思ってしまうことだ。果たして、私のこうした暮らしは3日坊主で終わってしまうのか。スーパーの袋を持ちながら、松屋の前で立ち止まる。慎ましい生活に、明日はあるのか。
(つづく)(とおもう)
*これは、わたしが節約生活を続けるためにはじめたブログ内の連載です。みんな応援してください。